お寺女子blog

「悟りについて考える」

 

悟りについて考える

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自分自身が法というものを十分に理解した状態を悟りといいます。

自分自身が住んでいる世界の何かということを、はっきりつかんだ状態ともいいます。

自分を中心にして、外界の世界を対象に修行することを、無理に意識的に行うことは迷いとなります。

客観的な現実の世界が積極的に自分自身に働きかけてきて、修行させることが悟りです。

坐禅について考えてみましょう。

坐禅をせず「どうしよう、どうしよう」と考えることは、悩みが深くなるばかりで、人生の救いになりません。

坐禅の修行をしないで、仏道を理解しようと考えて、本を読んで知識を増やし、仏道に自分も近づこう努力しても、苦しみや迷いばかりで悩みだけが増えるのです。

ところが坐禅をすると、自分自身が法の世界の中に体全体で入り込むのです。

ただ座っているという事実の中で、自分自身がどういうものであるか、ということを周囲の状況が悟らせてくれる、自分の体の状況が悟らせてくれる、心の状態が悟らせてくれるのです。

本屋に行くとビジネス本がずらりと並んでいます。

そういう本を読んで、生活に役立たせようとしても、苦しみが増え、迷いが深くなってしまいます。

そのため、一日一定の時間に坐禅をすることの方が、人生問題に役立ち、早く解決されます。

「悟りたい」と焦る状態が衆生であり、一般の普通の人の状態です。

私達が迷っているという事実がどういうことかはっきりわかった人が仏と呼ばれる、真実をつかんだ人と呼ばれます。

また真実をつかんだ人はさらにその上に真実をつかむものです。

自分で悟ったという意識はなく、ただ仏道にかなった行動がどんどん進んでいきます。

自分が悟ったと実感はなくても、日常生活を間違いなく着々と送っていく。

これが仏であるということです。

 

坐禅が悟りである

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悟りについては、道元禅師の考えた悟りと、世間一般で想像している悟りとは違います。

道元禅師の悟りとは、坐禅をすることによって、何か自分の状態が変わって特別な状態が現れてくるものではないのです。

道元禅師は、仏教哲学である以上、行いの哲学の原則に従って問題を考えなければならない、というような捉え方をしています。

行いの原則とは、目的と手段とが別々に分かれていないということです。

仏教の世界では坐禅をしているとき、修行であると同時に、それが体験であり、悟りであると考えられた。

坐禅をしていると、悟りという特別な境地が開かれるということではなく、坐禅をしているときの状態そのものが悟りであるといわれています。

道元禅師は、このようなごく一般的な人間のあり方、自律神経のバランスが良い状態が悟りであって、その悟りを坐禅しているときに得て、それを日常生活に活かしていくことが仏道修行の目標であるといいます。