お寺女子blog

「釈尊の四諦の教え」

釈尊四諦の教え

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釈尊四諦の教えとは?

釈尊はある朝、明けの明星が東の空に輝いている頃、坐禅の境地から出られたときに、われわれの修行の中心は現実を認めることだという実感を持たれた、その教えが「四諦」の教えと中道なのです。

この四諦の諦という字は、訓で読むと「あきらめる」という字です。

あきらめるというのは、断念するという意味ではなく、はっきりさせる、明らかにするという意味です。

四諦というのは、さまざまの問題をはっきりさせるということで、それに四つの教え方があるというのが言葉の意味です。

仏教では、この世の中を考えていく場合に、苦諦、集諦、滅諦、道諦という四つの教え方があります。

 

理想を基にした考え方

理想を基にした考え方を苦痛といいます。

まず苦諦というのはどういう考え方といいますと、われわれは心の中に理想というものを持っていて、こうしたい、ああしたい、こうしなければならない、ああしなければならないという考えが山ほどあります。

しかしそういう理想が頭の中に詰まっていると、現実の世界を見た場合、現実はなかなかそう理想どおりにはいきません。

自分の思い通りにならないという現実、それが苦の世界です。

だから、この苦の原因になっているのは、ああしたい、こうしたいという自分自身が持っている理想、願望です。

理想とか願望とかを基準にした考え方を苦諦というのです。

 

現実にとらわれた考え方

現実にとらわれた考え方を集諦といいます。

大人になりかけの年頃になると、現実というものを今度はよく見るようになります。

そんな偉そうなことを言ったって、そうはいかない。

大人はどうせずるいことをやってるんだから、おれだってずるくやらないと損だという考え方が、年頃になると成長の一過程で出てくるものです。

ですから中学から高校ぐらいの年頃というのは、わりあいものの考え方が現実的で、むしろ、そういう世の中の裏側を見ることが大人になった証拠のように思い込んでしまい、そういう生き方を得意になってする場合があります。

そういう考え方を集諦というのです。

それはなぜ集諦というかというと、ものごとを物質的に考えるからです。

この世の中は物質的なのものの集まりです。

原子とか、分子とか、そういう細かい微粒子の集まりででき上っています。

原因・結果の関係の集積に縛られているのです。

だから人間が良心的に一生懸命に努力するということよりも、現実がどうなっていて、どういうことしかできないかという、現実そのものをよく見るという点では優れているけれども、人間の努力というものにあまり信頼を置かない、どうせなるようにしかならないんだという考え方があります。

これも世の中に非常に盛んに行われている考え方です。

ところがこういう考え方で人間に満足して、じゃ、もうあきらめよう、どうせがんばったってしょうがないんだから、できるだけずるく立ち回って楽をしよう、ということで満足できるかというと、なかなかそうはいきません。

そういう考え方に徹して生きていこうと思っても、どうも生きがいがない。

張り切って一生懸命やっていたときは、失敗しても何でも、とにかく生きている喜びがあった。

どうせ何でもだめなんだからということで、ずるくずるく、楽に楽にというふうに生きるようになったら、生きている張り合いがなくなってしまうのが人間の実情なのです。

そうすると、一番最初の考え方で理想に燃えて一生懸命やると、現実にぶつかって壁にあたってしまい、しかし、どうせだめだからといってあきらめると、生きがいがなくなってしまう。

これが普通の社会人が考える二つの代表的な考え方です。

だいたいこの二つのどっちかを頼りにして、ほとんどの人は一生を終わってしまいます。

一生懸命がんばったけれど、どうもものにならなかった、おれは運が悪かった、というふうに一生を終わる人もいれば、逆に、ずるくずるくと思って、苦労のわりにはいい思いをしたと思っているかもしれないけれども、自分の一生はとうとう何のために生きたんだか、よくわからない。

楽をするために一生懸命やってたんだけれども、結局楽をすることでは何のために生きたんだかよく意味がわからない、というような形で終わってしまうという場合もあります。

これが一般社会人の典型的な考え方でしょう。

 

行いの世界

行いの世界を減諦といいます。

釈尊は、人間はこの二つの生き方では幸福を感ずることができない、ということに気がつかれたのです。

ですから、理想を一生懸命追求しながら、しかも現実と調和していく生き方がどこかにないかと考えられた。

それが釈尊が修行をされ苦心をされた原因なのです。

その結果、釈尊が気付かれたことは、人間というものは頭の中であれこれと考えていても、人生問題はなかなか解決がつかないものだということです。

頭がよくて、ものごとを考えれば考えるほど、人生問題が複雑になってしまうという場合もあります。

そうかといって、もうそういうややこしいことは考えまい。

おいしいものを食べ、着たいものを着て、のんびり生きていこうという態度をとると、人生の意味がどこにあるのかわからなくなって、これも幸福とは感ずることができません。

では、人の人生を幸福にするのは何かというと、与えられている現実の瞬間を一生懸命生きるということ。

そのことが人生を幸福にする唯一最大の方法だということを釈尊は説かれたわけです。

だから釈尊は、どういう行いをするかということが人の一生を決める。

そして人間が幸福と感ずるためには、自分がやりたいと思うことを一生懸命やって、しかもそれを実現すること、それが人の人生を幸福にする唯一の道だということを考えられたのです。

ですから釈尊が説かれたのは、ものを考えるということ、あるいは物質的にいろいろな刺激を感覚的に受け入れるということよりも、人間が生きがいを感ずる、人生に意味をもたらすところのものは、何をするかということ、どういう行動をするかということにあるということなのです。

こういう行動の世界のことを、四諦の教え方では第三番目の滅諦といいます。

なぜ滅かというと、ものを考えることも一応棚上げする、それから感覚的にいろいろなものを味わうということも一応棚上げする。

一生懸命目前の行動に没頭して生きるということ、これが滅諦という考え方です。

こういうふうに行動をして一生懸命に生きるということが確かに人生の意味をもたらすわけでありますが、これも単純にそのまま問題解決につながるかというと、そうはいきません。

なぜそうならないかというと、実際に行動するということは非常に難しいからです。

我々がものを考えているということに関しては、それが間違っていようと、間違っていまいと、自分にもそう害を及ぼさないし、人にもそう害を及ぼさないものです。

ただ自分の手足を動かして実際に行動するということになると、それがまずければ自分自身が被害を受けます。

また他人に被害を与えるということがあります。

そうすると、実際に行動をするということは、簡単なようで非常に難しい。

自分も傷つかず、人にも傷を与えないような行動というのは非常に難しいものです。

 

本来の状態に戻ること

本来の状態に戻ることを道諦といいます。

そうなってくると、実際に日常生活で積極的に行動しながら、しかも自分が傷つかず、人にも傷を与えないという生き方はどうしたらいいのか、この場合、釈尊が説かれたことは、人間が幸福になるためには、自分の本来の状態に立ち返らなければならないということです。

本来の状態に戻った行動というものは、自分自身をも傷つけないし、人にも迷惑を与えないということです。

それはなぜそうかというと、われわれは法という現実の世界の中に生きています。

だから、その法の世界を支配している原則を、自分自身が身につけて、その原則に従って生きるならば、自分も満足を感じ得るし、人にも迷惑をかけない、自分にも人にも幸福を与えることができる。

そういうことに気づかれたのです。

その本来の状態に戻るということが、この四番目の道諦という考え方の基礎なのです。

 

坐禅から感得できる四段階の考え方

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この四段階の考え方は、坐禅をすることから感得できます。

道元禅師が「正法眼蔵」という仏教思想書に、四諦の教えをよりわかりやすく、四段階の考え方として説かれています。

正法眼蔵」の理解は、坐禅の修行なしにはおそらく不可能であろうと言われています。

坐禅を行うことで、私たちが生きている世界や宇宙がどんなものか見えてくるのです。

行いは坐禅に限らず、何かに真剣になって行動することで、行いの世界を実感します。

仏教が人々の幸福につながることを念頭しながら、道元禅師は「正法眼蔵」と書かれたのです。

坐禅を実際にすることで自分や世界を実感するでしょう。