お寺女子blog

「禅の心得」

禅の心得

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道元禅師の教え 正法眼蔵より

最高の福祉、悟りへの道

 

坐禅はなぜ必要か?

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日常生活の動作というものをとらえようとしても、なかなか言葉ではつかむことはできません。

眼で見れば人の動作はわかりますが、自分の動作がどういうものであるかという本質的なものはつかみにくいものです。

そこで釈尊坐禅という修行法をわれわれに教えられたのです。

足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてじっと座っているときに、われわれの行いというものがどういうものか、動作というものがどういうものか、日常生活がどういうものか、坐禅の修行をすることによって、釈尊が説かれた教えを体全体、心全体で経験することが坐禅の目的なのです。

では坐禅を家庭で行ってみましょう。

簡単にやるには、座布団を三枚くらい重ねてその一つの角の上に腰を下ろし、足を組み、手を組み、背骨を伸ばす、ということをわずかな時間でも始めると、坐禅をやることにより、いろいろなことで心配を重ねている日常生活とは違う安らぎを実際に経験することができます。

そしてそういう安らぎの状態の中で、人生とは何かが、坐禅をとおして本当に考える余力が生まれてくるものです。

それから、怠け心が起きて仕事はしたくないという気持ちも、少しずつ元に戻るということもあります。

人生の中で気力をなくしてしまっているような方にとっても、坐禅をすることによって緊張感が少しずつ戻り、人生とはこんなに楽しいものかと思えるような活力が湧いてきます。

 

釈尊の説いた四つの教え(四諦

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一つの問題を考えるに当たって、一つの立場から議論をした場合には正しい結論が出てきません。

それはなぜでしょうか?

そのことを具体的に申しますと、人間は誰でも頭で考えて、各人がそれなりの結論を得る訳です。

ところが頭で考えた結論が常に正しいかどうか、われわれの生きている現実世界に適合するかどうか、ということを考えてみますと、必ずしも常に適合するとはいえません。

むしろ頭で考えた問題が現実とは非常に食い違ってくることの方が多いのです。

そこで別の考え方として、眼で見る、耳で聞く、という感覚的な働きを通して得られる知識も、同時に大変必要なのです。

人類はこの二つの考え方が中心になって文化が発達してきたということがいえます。

今日その中心をなしている欧米の文化を考えてみても、最初は頭で考えた観念論というものが非常に発達しました。

ところが近世になると、観念論だけでは正しいものがつかめないと気が付いて、眼で見る、耳で聞く、というふうな物質を基礎にした学問、つまり科学が発達して、この世の中を全て物質的な要素でとらえていくという、唯物論の考え方が進んだ訳です。

ただ、この二つの考え方は正反対の考え方ですから、観念論の立場をとる人にとっては唯物論を絶対にとることができない。

唯物論の立場の人は、観念論を絶対にとれない、という事実があります。

今日、依然として世界のあちこちで戦争が続いておりますが、その背景にはこのような思想の違い、宗教の違いというものが渦巻いているわけです。

釈尊は、この二つの考え方の対立について検討をされた結果、この二つの考え方の中間に行いの世界があるということに気が付かれたのです。

つまり、われわれの人生というものは、ものを考えるということが中心ではなく、またわれわれの人生は感覚的な刺激を楽しんで、それに溺れ流されていくことが人生ではない。

われわれの人生は何かというなら、それは行いである、と。

こうして三番目の考え方を説かれた訳です。

ただ行いというのは規則するのが難しい。

この行いを正しい方向に持っていくのに坐禅が必要になって来るのです。

坐禅を通じて頭だけで問題を考えるという傾向からも、感覚的な刺激に溺れることからも離れることができるのです。

坐禅をすることによって、ものを考えるだけの世界からも脱け出し、感覚的に刺激を受ける世界からも脱け出せるのです。

足を組み、手を組み、背骨を伸ばし座っているということは、まさに行いをしているということで、そこからはじまるのです。

「だまって座る」が坐禅の世界です。