お寺女子blog

「禅の修行」

禅の修行

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禅の修行解説図を十牛図といいます。

禅の世界の文献です。

主として臨済宗で使われています。

中国の宋代につくられたもので、牛を描いた十枚の絵と偈頌(げじゅ)で、禅の修行のプロセスを解説したものです。

ただし全部に牛が描かれているわけではありません。

解説するには、ほとんどの本が廓庵師遠(かくあんしおん)禅師の描いたものによっています。

この人がどういう人かわかっていません。

「空」を描いた一枚が、いずれの十牛図にも含まれています。

この空が本質ではないかと、いろいろな書物でいわれています。

 

尋牛(じんぎゅう)

仏性の象徴である牛を見つけようと決心したが、牛は見つけられないという状況。

(仏性‥仏としての本質、仏になるための原因のこと)

人には仏性が本来備わっているが、人はそれを忘れ、損得という分別の世界に陥って仏から遠ざかる。

自己に目覚めた時、自己発見のために牛を一人で探し求めることにしました。

人に頼るわけにはいけません。

自分の人生は自分一人で行くのです。

 

見跡(けんせき)

経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない。

長い旅で牛はもう見つからないとあきらめかけた時、旅をするにしたがって牛の足跡らしきものを見分ける心が出来てきました。

「ああ、牛はあそこにいるぞ」と喜んでその足跡の方向に向かってかけ寄りました。

 

見牛(けんぎゅう)

行においてその牛を身上に実地に見た境位。

とうとう探し求めていた牛の足跡を発見しました。

自己を発見したのですが、全部ではありません。

牛は前方の木の背後に尻尾の方の部分だけを出して隠れています。

牛が驚いて逃げ出さないように、牧人は足をしのばせて牛の方に近づいていきます。

 

得牛(とくぎゅう)

牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます。

牛を見つけたら、しっかり自分のものにします。

牛は真実の自己です。

これがなかなか自分のものになりません。

自分の心をほぐしたいのであれば、自分にムチを惜しまないことではないかという意味のようです。

 

牧牛(ぼくぎゅう)

本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。

慣れてくれば牛は素直に従うようにもなる。

牧人は暴れる牛を綱と鞭とで徐々におとなしく手なずけてゆきます。

とうとう牛は牧人の根気強さに負けてしまいました。

もう二度と牛は暴れることも逃げ出すこともできません。

 

騎牛帰家(きぎゅうきか)

心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない。

人は牛に乗って帰り、もう人と牛との争いはなくなりました。

つまり、悟りと述道者がぴったりと一つになったということです。

牛(悟り)を得て、幸福であっても、必要なのは日常生活においてです。

でも、急いではいけないという意味合いでしょう。

 

忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)

家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる。

人は牛を追いかけているが、それと同じで、幸福、悟りを追いかけて、家に帰れば牛は不用で、忘れてしまう。

せっかくつかまえた牛が不用となるのです。

つまり、牛にこだわってはいけない。

忘れてしまいなさいということでしょう。

牛(悟り、幸福)は日常の生活にあっては役立たないものと考えなさい。

牛は非日常的なものなのです。

 

人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)

牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。

忘れるということもなくなる世界。

牛を探して家を出て、牛を引いて家に帰って来て、その牛を忘れてしまう。

つまり、次には人そのものを忘れてしまう必要がある。

牛を忘れて、人を忘れて、そして「空」になって、初めて禅の旅路は完結するという意味合いです。

ただ、「空」は「無」ではありません。

何もないということではありません。

「空」は世界です。

いいかえれば、世界が「空」なのです。

充実した世界なのだということです。

 

返本還源(へんぽんかんげん)

何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る。

心は初めから清浄であって、ちりなどはついていません。

現実の栄枯盛衰を観察しながら無為という境地に入ることです。

水は青く、山は緑。

じっと座して、その変化の姿を観察していればよいのです。

つまり、幸福を求めて旅に出ましたが、幸福はもともと初めから自分の足元にあったのです。

でも、旅に出ないと幸福は見つかりませんでした。

旅に出て、帰ってきたところに美しい世界(幸福ともいえる)があったのです。

 

入鄽垂手(にってんすいしゅ)

悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。

再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。

門をひっそりと閉ざしてしまえば、いかなる聖者も中に居る人の心境はわかりません。

自分のかがやきをもかくしてしまうとともに、昔の歩んだ教えも拒否してしまう。

そして見えてくるのは平凡な風景ということです(ごくありきたりなもの)。

つまり、ただの人がつくった、ごく平凡な「人の世」が見えてくる。

なんの変哲もないのです。

 

まとめ

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禅の世界は平凡な日常の世界なのです。

この日常の世界に「幸福」があるのです。

日常の世界に幸福をみつけねばならない、これこそ本物の幸福であると、この正真正銘の幸福を見つけるために禅の世界に入らねばなりません。

つまり、非日常の世界を通過して、初めて日常の世界が美しく光ってくるのです。

言い換えれば、ふるさとを出て、旅をして、この旅をしたあげくにふるさとに帰ってくる。

この旅の世界が禅の世界なのです。

だれでもいつかは必ずふるさとに帰ってきます。

いや、確実に帰ってきます。

でも、旅には出なければなりません。

旅に出ないと、ふるさとの価値がわからないからです。

ともかく一歩踏み出しなさいということなのです。

出発してみなさい。