お寺女子blog

「悟りについて考える」

 

悟りについて考える

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自分自身が法というものを十分に理解した状態を悟りといいます。

自分自身が住んでいる世界の何かということを、はっきりつかんだ状態ともいいます。

自分を中心にして、外界の世界を対象に修行することを、無理に意識的に行うことは迷いとなります。

客観的な現実の世界が積極的に自分自身に働きかけてきて、修行させることが悟りです。

坐禅について考えてみましょう。

坐禅をせず「どうしよう、どうしよう」と考えることは、悩みが深くなるばかりで、人生の救いになりません。

坐禅の修行をしないで、仏道を理解しようと考えて、本を読んで知識を増やし、仏道に自分も近づこう努力しても、苦しみや迷いばかりで悩みだけが増えるのです。

ところが坐禅をすると、自分自身が法の世界の中に体全体で入り込むのです。

ただ座っているという事実の中で、自分自身がどういうものであるか、ということを周囲の状況が悟らせてくれる、自分の体の状況が悟らせてくれる、心の状態が悟らせてくれるのです。

本屋に行くとビジネス本がずらりと並んでいます。

そういう本を読んで、生活に役立たせようとしても、苦しみが増え、迷いが深くなってしまいます。

そのため、一日一定の時間に坐禅をすることの方が、人生問題に役立ち、早く解決されます。

「悟りたい」と焦る状態が衆生であり、一般の普通の人の状態です。

私達が迷っているという事実がどういうことかはっきりわかった人が仏と呼ばれる、真実をつかんだ人と呼ばれます。

また真実をつかんだ人はさらにその上に真実をつかむものです。

自分で悟ったという意識はなく、ただ仏道にかなった行動がどんどん進んでいきます。

自分が悟ったと実感はなくても、日常生活を間違いなく着々と送っていく。

これが仏であるということです。

 

坐禅が悟りである

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悟りについては、道元禅師の考えた悟りと、世間一般で想像している悟りとは違います。

道元禅師の悟りとは、坐禅をすることによって、何か自分の状態が変わって特別な状態が現れてくるものではないのです。

道元禅師は、仏教哲学である以上、行いの哲学の原則に従って問題を考えなければならない、というような捉え方をしています。

行いの原則とは、目的と手段とが別々に分かれていないということです。

仏教の世界では坐禅をしているとき、修行であると同時に、それが体験であり、悟りであると考えられた。

坐禅をしていると、悟りという特別な境地が開かれるということではなく、坐禅をしているときの状態そのものが悟りであるといわれています。

道元禅師は、このようなごく一般的な人間のあり方、自律神経のバランスが良い状態が悟りであって、その悟りを坐禅しているときに得て、それを日常生活に活かしていくことが仏道修行の目標であるといいます。

「釈尊の四諦の教え」

釈尊四諦の教え

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釈尊四諦の教えとは?

釈尊はある朝、明けの明星が東の空に輝いている頃、坐禅の境地から出られたときに、われわれの修行の中心は現実を認めることだという実感を持たれた、その教えが「四諦」の教えと中道なのです。

この四諦の諦という字は、訓で読むと「あきらめる」という字です。

あきらめるというのは、断念するという意味ではなく、はっきりさせる、明らかにするという意味です。

四諦というのは、さまざまの問題をはっきりさせるということで、それに四つの教え方があるというのが言葉の意味です。

仏教では、この世の中を考えていく場合に、苦諦、集諦、滅諦、道諦という四つの教え方があります。

 

理想を基にした考え方

理想を基にした考え方を苦痛といいます。

まず苦諦というのはどういう考え方といいますと、われわれは心の中に理想というものを持っていて、こうしたい、ああしたい、こうしなければならない、ああしなければならないという考えが山ほどあります。

しかしそういう理想が頭の中に詰まっていると、現実の世界を見た場合、現実はなかなかそう理想どおりにはいきません。

自分の思い通りにならないという現実、それが苦の世界です。

だから、この苦の原因になっているのは、ああしたい、こうしたいという自分自身が持っている理想、願望です。

理想とか願望とかを基準にした考え方を苦諦というのです。

 

現実にとらわれた考え方

現実にとらわれた考え方を集諦といいます。

大人になりかけの年頃になると、現実というものを今度はよく見るようになります。

そんな偉そうなことを言ったって、そうはいかない。

大人はどうせずるいことをやってるんだから、おれだってずるくやらないと損だという考え方が、年頃になると成長の一過程で出てくるものです。

ですから中学から高校ぐらいの年頃というのは、わりあいものの考え方が現実的で、むしろ、そういう世の中の裏側を見ることが大人になった証拠のように思い込んでしまい、そういう生き方を得意になってする場合があります。

そういう考え方を集諦というのです。

それはなぜ集諦というかというと、ものごとを物質的に考えるからです。

この世の中は物質的なのものの集まりです。

原子とか、分子とか、そういう細かい微粒子の集まりででき上っています。

原因・結果の関係の集積に縛られているのです。

だから人間が良心的に一生懸命に努力するということよりも、現実がどうなっていて、どういうことしかできないかという、現実そのものをよく見るという点では優れているけれども、人間の努力というものにあまり信頼を置かない、どうせなるようにしかならないんだという考え方があります。

これも世の中に非常に盛んに行われている考え方です。

ところがこういう考え方で人間に満足して、じゃ、もうあきらめよう、どうせがんばったってしょうがないんだから、できるだけずるく立ち回って楽をしよう、ということで満足できるかというと、なかなかそうはいきません。

そういう考え方に徹して生きていこうと思っても、どうも生きがいがない。

張り切って一生懸命やっていたときは、失敗しても何でも、とにかく生きている喜びがあった。

どうせ何でもだめなんだからということで、ずるくずるく、楽に楽にというふうに生きるようになったら、生きている張り合いがなくなってしまうのが人間の実情なのです。

そうすると、一番最初の考え方で理想に燃えて一生懸命やると、現実にぶつかって壁にあたってしまい、しかし、どうせだめだからといってあきらめると、生きがいがなくなってしまう。

これが普通の社会人が考える二つの代表的な考え方です。

だいたいこの二つのどっちかを頼りにして、ほとんどの人は一生を終わってしまいます。

一生懸命がんばったけれど、どうもものにならなかった、おれは運が悪かった、というふうに一生を終わる人もいれば、逆に、ずるくずるくと思って、苦労のわりにはいい思いをしたと思っているかもしれないけれども、自分の一生はとうとう何のために生きたんだか、よくわからない。

楽をするために一生懸命やってたんだけれども、結局楽をすることでは何のために生きたんだかよく意味がわからない、というような形で終わってしまうという場合もあります。

これが一般社会人の典型的な考え方でしょう。

 

行いの世界

行いの世界を減諦といいます。

釈尊は、人間はこの二つの生き方では幸福を感ずることができない、ということに気がつかれたのです。

ですから、理想を一生懸命追求しながら、しかも現実と調和していく生き方がどこかにないかと考えられた。

それが釈尊が修行をされ苦心をされた原因なのです。

その結果、釈尊が気付かれたことは、人間というものは頭の中であれこれと考えていても、人生問題はなかなか解決がつかないものだということです。

頭がよくて、ものごとを考えれば考えるほど、人生問題が複雑になってしまうという場合もあります。

そうかといって、もうそういうややこしいことは考えまい。

おいしいものを食べ、着たいものを着て、のんびり生きていこうという態度をとると、人生の意味がどこにあるのかわからなくなって、これも幸福とは感ずることができません。

では、人の人生を幸福にするのは何かというと、与えられている現実の瞬間を一生懸命生きるということ。

そのことが人生を幸福にする唯一最大の方法だということを釈尊は説かれたわけです。

だから釈尊は、どういう行いをするかということが人の一生を決める。

そして人間が幸福と感ずるためには、自分がやりたいと思うことを一生懸命やって、しかもそれを実現すること、それが人の人生を幸福にする唯一の道だということを考えられたのです。

ですから釈尊が説かれたのは、ものを考えるということ、あるいは物質的にいろいろな刺激を感覚的に受け入れるということよりも、人間が生きがいを感ずる、人生に意味をもたらすところのものは、何をするかということ、どういう行動をするかということにあるということなのです。

こういう行動の世界のことを、四諦の教え方では第三番目の滅諦といいます。

なぜ滅かというと、ものを考えることも一応棚上げする、それから感覚的にいろいろなものを味わうということも一応棚上げする。

一生懸命目前の行動に没頭して生きるということ、これが滅諦という考え方です。

こういうふうに行動をして一生懸命に生きるということが確かに人生の意味をもたらすわけでありますが、これも単純にそのまま問題解決につながるかというと、そうはいきません。

なぜそうならないかというと、実際に行動するということは非常に難しいからです。

我々がものを考えているということに関しては、それが間違っていようと、間違っていまいと、自分にもそう害を及ぼさないし、人にもそう害を及ぼさないものです。

ただ自分の手足を動かして実際に行動するということになると、それがまずければ自分自身が被害を受けます。

また他人に被害を与えるということがあります。

そうすると、実際に行動をするということは、簡単なようで非常に難しい。

自分も傷つかず、人にも傷を与えないような行動というのは非常に難しいものです。

 

本来の状態に戻ること

本来の状態に戻ることを道諦といいます。

そうなってくると、実際に日常生活で積極的に行動しながら、しかも自分が傷つかず、人にも傷を与えないという生き方はどうしたらいいのか、この場合、釈尊が説かれたことは、人間が幸福になるためには、自分の本来の状態に立ち返らなければならないということです。

本来の状態に戻った行動というものは、自分自身をも傷つけないし、人にも迷惑を与えないということです。

それはなぜそうかというと、われわれは法という現実の世界の中に生きています。

だから、その法の世界を支配している原則を、自分自身が身につけて、その原則に従って生きるならば、自分も満足を感じ得るし、人にも迷惑をかけない、自分にも人にも幸福を与えることができる。

そういうことに気づかれたのです。

その本来の状態に戻るということが、この四番目の道諦という考え方の基礎なのです。

 

坐禅から感得できる四段階の考え方

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この四段階の考え方は、坐禅をすることから感得できます。

道元禅師が「正法眼蔵」という仏教思想書に、四諦の教えをよりわかりやすく、四段階の考え方として説かれています。

正法眼蔵」の理解は、坐禅の修行なしにはおそらく不可能であろうと言われています。

坐禅を行うことで、私たちが生きている世界や宇宙がどんなものか見えてくるのです。

行いは坐禅に限らず、何かに真剣になって行動することで、行いの世界を実感します。

仏教が人々の幸福につながることを念頭しながら、道元禅師は「正法眼蔵」と書かれたのです。

坐禅を実際にすることで自分や世界を実感するでしょう。

 

「禅の心得」

禅の心得

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道元禅師の教え 正法眼蔵より

最高の福祉、悟りへの道

 

坐禅はなぜ必要か?

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日常生活の動作というものをとらえようとしても、なかなか言葉ではつかむことはできません。

眼で見れば人の動作はわかりますが、自分の動作がどういうものであるかという本質的なものはつかみにくいものです。

そこで釈尊坐禅という修行法をわれわれに教えられたのです。

足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてじっと座っているときに、われわれの行いというものがどういうものか、動作というものがどういうものか、日常生活がどういうものか、坐禅の修行をすることによって、釈尊が説かれた教えを体全体、心全体で経験することが坐禅の目的なのです。

では坐禅を家庭で行ってみましょう。

簡単にやるには、座布団を三枚くらい重ねてその一つの角の上に腰を下ろし、足を組み、手を組み、背骨を伸ばす、ということをわずかな時間でも始めると、坐禅をやることにより、いろいろなことで心配を重ねている日常生活とは違う安らぎを実際に経験することができます。

そしてそういう安らぎの状態の中で、人生とは何かが、坐禅をとおして本当に考える余力が生まれてくるものです。

それから、怠け心が起きて仕事はしたくないという気持ちも、少しずつ元に戻るということもあります。

人生の中で気力をなくしてしまっているような方にとっても、坐禅をすることによって緊張感が少しずつ戻り、人生とはこんなに楽しいものかと思えるような活力が湧いてきます。

 

釈尊の説いた四つの教え(四諦

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一つの問題を考えるに当たって、一つの立場から議論をした場合には正しい結論が出てきません。

それはなぜでしょうか?

そのことを具体的に申しますと、人間は誰でも頭で考えて、各人がそれなりの結論を得る訳です。

ところが頭で考えた結論が常に正しいかどうか、われわれの生きている現実世界に適合するかどうか、ということを考えてみますと、必ずしも常に適合するとはいえません。

むしろ頭で考えた問題が現実とは非常に食い違ってくることの方が多いのです。

そこで別の考え方として、眼で見る、耳で聞く、という感覚的な働きを通して得られる知識も、同時に大変必要なのです。

人類はこの二つの考え方が中心になって文化が発達してきたということがいえます。

今日その中心をなしている欧米の文化を考えてみても、最初は頭で考えた観念論というものが非常に発達しました。

ところが近世になると、観念論だけでは正しいものがつかめないと気が付いて、眼で見る、耳で聞く、というふうな物質を基礎にした学問、つまり科学が発達して、この世の中を全て物質的な要素でとらえていくという、唯物論の考え方が進んだ訳です。

ただ、この二つの考え方は正反対の考え方ですから、観念論の立場をとる人にとっては唯物論を絶対にとることができない。

唯物論の立場の人は、観念論を絶対にとれない、という事実があります。

今日、依然として世界のあちこちで戦争が続いておりますが、その背景にはこのような思想の違い、宗教の違いというものが渦巻いているわけです。

釈尊は、この二つの考え方の対立について検討をされた結果、この二つの考え方の中間に行いの世界があるということに気が付かれたのです。

つまり、われわれの人生というものは、ものを考えるということが中心ではなく、またわれわれの人生は感覚的な刺激を楽しんで、それに溺れ流されていくことが人生ではない。

われわれの人生は何かというなら、それは行いである、と。

こうして三番目の考え方を説かれた訳です。

ただ行いというのは規則するのが難しい。

この行いを正しい方向に持っていくのに坐禅が必要になって来るのです。

坐禅を通じて頭だけで問題を考えるという傾向からも、感覚的な刺激に溺れることからも離れることができるのです。

坐禅をすることによって、ものを考えるだけの世界からも脱け出し、感覚的に刺激を受ける世界からも脱け出せるのです。

足を組み、手を組み、背骨を伸ばし座っているということは、まさに行いをしているということで、そこからはじまるのです。

「だまって座る」が坐禅の世界です。

「禅の修行」

禅の修行

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禅の修行解説図を十牛図といいます。

禅の世界の文献です。

主として臨済宗で使われています。

中国の宋代につくられたもので、牛を描いた十枚の絵と偈頌(げじゅ)で、禅の修行のプロセスを解説したものです。

ただし全部に牛が描かれているわけではありません。

解説するには、ほとんどの本が廓庵師遠(かくあんしおん)禅師の描いたものによっています。

この人がどういう人かわかっていません。

「空」を描いた一枚が、いずれの十牛図にも含まれています。

この空が本質ではないかと、いろいろな書物でいわれています。

 

尋牛(じんぎゅう)

仏性の象徴である牛を見つけようと決心したが、牛は見つけられないという状況。

(仏性‥仏としての本質、仏になるための原因のこと)

人には仏性が本来備わっているが、人はそれを忘れ、損得という分別の世界に陥って仏から遠ざかる。

自己に目覚めた時、自己発見のために牛を一人で探し求めることにしました。

人に頼るわけにはいけません。

自分の人生は自分一人で行くのです。

 

見跡(けんせき)

経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない。

長い旅で牛はもう見つからないとあきらめかけた時、旅をするにしたがって牛の足跡らしきものを見分ける心が出来てきました。

「ああ、牛はあそこにいるぞ」と喜んでその足跡の方向に向かってかけ寄りました。

 

見牛(けんぎゅう)

行においてその牛を身上に実地に見た境位。

とうとう探し求めていた牛の足跡を発見しました。

自己を発見したのですが、全部ではありません。

牛は前方の木の背後に尻尾の方の部分だけを出して隠れています。

牛が驚いて逃げ出さないように、牧人は足をしのばせて牛の方に近づいていきます。

 

得牛(とくぎゅう)

牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます。

牛を見つけたら、しっかり自分のものにします。

牛は真実の自己です。

これがなかなか自分のものになりません。

自分の心をほぐしたいのであれば、自分にムチを惜しまないことではないかという意味のようです。

 

牧牛(ぼくぎゅう)

本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。

慣れてくれば牛は素直に従うようにもなる。

牧人は暴れる牛を綱と鞭とで徐々におとなしく手なずけてゆきます。

とうとう牛は牧人の根気強さに負けてしまいました。

もう二度と牛は暴れることも逃げ出すこともできません。

 

騎牛帰家(きぎゅうきか)

心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない。

人は牛に乗って帰り、もう人と牛との争いはなくなりました。

つまり、悟りと述道者がぴったりと一つになったということです。

牛(悟り)を得て、幸福であっても、必要なのは日常生活においてです。

でも、急いではいけないという意味合いでしょう。

 

忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)

家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる。

人は牛を追いかけているが、それと同じで、幸福、悟りを追いかけて、家に帰れば牛は不用で、忘れてしまう。

せっかくつかまえた牛が不用となるのです。

つまり、牛にこだわってはいけない。

忘れてしまいなさいということでしょう。

牛(悟り、幸福)は日常の生活にあっては役立たないものと考えなさい。

牛は非日常的なものなのです。

 

人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)

牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。

忘れるということもなくなる世界。

牛を探して家を出て、牛を引いて家に帰って来て、その牛を忘れてしまう。

つまり、次には人そのものを忘れてしまう必要がある。

牛を忘れて、人を忘れて、そして「空」になって、初めて禅の旅路は完結するという意味合いです。

ただ、「空」は「無」ではありません。

何もないということではありません。

「空」は世界です。

いいかえれば、世界が「空」なのです。

充実した世界なのだということです。

 

返本還源(へんぽんかんげん)

何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る。

心は初めから清浄であって、ちりなどはついていません。

現実の栄枯盛衰を観察しながら無為という境地に入ることです。

水は青く、山は緑。

じっと座して、その変化の姿を観察していればよいのです。

つまり、幸福を求めて旅に出ましたが、幸福はもともと初めから自分の足元にあったのです。

でも、旅に出ないと幸福は見つかりませんでした。

旅に出て、帰ってきたところに美しい世界(幸福ともいえる)があったのです。

 

入鄽垂手(にってんすいしゅ)

悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。

再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。

門をひっそりと閉ざしてしまえば、いかなる聖者も中に居る人の心境はわかりません。

自分のかがやきをもかくしてしまうとともに、昔の歩んだ教えも拒否してしまう。

そして見えてくるのは平凡な風景ということです(ごくありきたりなもの)。

つまり、ただの人がつくった、ごく平凡な「人の世」が見えてくる。

なんの変哲もないのです。

 

まとめ

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禅の世界は平凡な日常の世界なのです。

この日常の世界に「幸福」があるのです。

日常の世界に幸福をみつけねばならない、これこそ本物の幸福であると、この正真正銘の幸福を見つけるために禅の世界に入らねばなりません。

つまり、非日常の世界を通過して、初めて日常の世界が美しく光ってくるのです。

言い換えれば、ふるさとを出て、旅をして、この旅をしたあげくにふるさとに帰ってくる。

この旅の世界が禅の世界なのです。

だれでもいつかは必ずふるさとに帰ってきます。

いや、確実に帰ってきます。

でも、旅には出なければなりません。

旅に出ないと、ふるさとの価値がわからないからです。

ともかく一歩踏み出しなさいということなのです。

出発してみなさい。

「禅の歴史」

 禅の歴史

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禅とは、仏教の一宗派である禅宗のことです。

古代インドで行われていたヨーガといわれる瞑想法のうち、精神統一の部分を取り入れられたものが母体となって、中国と日本で更に洗練され独自の思想として発展しました。

禅の思想は数千年の昔からほとんど不変。

ヨーガ発生の紀元前二千年前の古銭には、禅の姿勢をした神獣が描かれています。

 

禅宗とは?

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日本では仏教は念仏ですが、坐禅によって悟りを開き、仏の教えを知ろうとすることが禅宗です。

インドに起こり6世紀のはじめに達磨大師(だるまだいし)によって中国に伝わり、日本では鎌倉時代(1192年~)、室町時代(1336年~)に盛んになりました。

達磨大師は眼光鋭く、髭を生やし、耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。

 

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三大宗派

曹洞宗

道元が伝えた曹洞宗(そうとうしゅう)は、地方武士の間に広まりました。

宗祖は希玄道元(きげんどうげん)。(1200~1253)

中国宋に渡り禅を学ぶ。

中国の禅僧洞山良价(とうざんりょうかい)と曹山本寂(もうざんほんじゅく)との頭文字をとったのが名の由来。

著書「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」が有名。

教義は「只管打坐(しかんたざ)」で、ただひたすらに坐禅をすることにつきます。

越前に永平寺を開き、時の権力に媚びず多くの大衆に教義を広めました。

臨済宗

鎌倉時代に宋から宋西が伝え上級武士に広まりました。

宗祖は明庵栄西(1141~1215)、中国唐代の僧臨済義玄(りんざいぎげん)を派祖とし、自身は27歳と47歳のときに二度入宋。

その後九州で布教し、京都でははじめ迫害にあい、鎌倉に移り、北条庇護のもとで寿福寺を建立。

後に京都健仁寺建立。

あらゆる束縛から解放された真の解脱こそ禅のあるべき姿であると説いています。

黄檗宗

黄檗宗(おうばくしゅう)

開祖は明代末期の中国の禅僧隠元隆琦(いんげんりゅうき)。(1592~1673)

江戸初期来日して、京都宇治に、黄檗山万福寺を開き、黄檗宗は上級階級に広まりました。

もとは臨済宗の流れをくみ、坐禅と念仏を併用して、独自の宗派を形づくりました。

建築様式、作法はすべて中国風で、誦経鳴らし物を使って中国語でとなえます。

「禅とはなにか?」

禅とはなにか?

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日常のちょっとしたイライラや気分の落ち込みに心が乱されることがあります。

そんなときに禅の考え方があなたの心を軽くするかもしれません。

「禅を知らない」「禅は聞いたことあるけど敷居が高そう…」

そんな方が多いと思います。

禅をもっと身近に感じる、ちょっとした禅の知識を紹介します。

 

 

禅を知る

 

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禅とは?

禅とは坐禅/座禅をすることの略称です。

道元禅師の言葉「非思量(ひしりょう)、これすなわち坐禅の要術なり。」

非思量とは、簡単に言えば考えないことです。

坐禅では姿勢を正すことで、交感神経と副交感神経が同じ力になり、自律神経のバランスが良くなります。

交感神経が強い場合は心を意識、副交感が強い場合は身体を意識されます。

このバランスが良くなったとき、心の意識も身体の意識も消え、身心脱落の状態になります。

この状態が人間の本来の状態です。

日々疲労している方、物事を考えすぎる方、心配性な方。

そんな人々が坐禅をして、本来の自分自身に戻っていくのです。

「雑念を捨て去る、世俗的な考えをやめる」と構えなくてよいのです。

あるがままの状態からクリーンな状態へと導く方法が坐禅です。

坐禅はお寺でも自宅でもできます。

坐禅をしようと思ったらどこでもできるのです。

 

坐禅の目的は?

坐禅の目的は自己の本性を知ることです。

簡単にいうと自分と向き合うこと。

坐禅の目的を知ったとき「あれ?こんなに簡単なことなの?」と思いました。

しかし、振り返ると今まで自分は自分と向き合ってきたのか、向き合う時間をつくっていたのか、と考えると即答できません。

簡単なことのようで、意識的に行う人と何もしない人では大きな差が生まれるでしょう。

私は仏道を歩む人は世俗的な自分を消し去って、仏道の価値観に心を入れ替えるイメージがありました。

しかし坐禅に関してはもっと身近に考えて良いのです。

仏道を自然に身につけるための方法が坐禅です。

不安や不満、怒りからの脱出に坐禅が役立ちます。

又は集中力を身につける訓練でもあります。

不安やストレスから解放されたい方はぜひ実践してみてください。

 

禅を学べる書籍紹介

「今日からはじめる坐禅-心得と効果-」

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坐禅がより身近に感じられる本です。

坐禅を全く知らない方でも読みやすく、初心者から専門的な内容まで幅広く対応しています。

坐禅に興味を持った方はぜひ読んでみてください!